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第10回
日米緊急医療におけるモバイルヘルス事情

昨今、日本の自治体で、救急車にiPadを導入する例がよく報道されている。
米国でも同様に、救急車にiPadを用いたシステムは構築されているのだろうか?
あるいは、他の活用事例はあるのだろうか?

  • (出典:Photo Pin)

    9月20日にiPhone5sが発売され、世間は新しいスマートフォンの話題に溢れている。同機種の発売日には銀座や渋谷のApple Storeに200人を超える人たちが列を作った。

    この人気は、単純にメーカーの認知度やブランドが広まってきただけでなく、デバイスの処理速度、処理量の劇的な向上も起因している。

    多くの人が手の届く値段で、iPhone5sのような、スマートフォンの恩恵を受けられるようになった今、医療の世界においてモバイルヘルス(携帯電話やスマートフォン、タブレットなどを用いた医療)は、見逃すことのできない存在となってきている。

    日本のモバイルヘルスだと、救急車とiPadという組み合わせがよく知られている。2011年に佐賀県が県内の全ての救急車にiPadを導入し、急患受け入れの情報システムを構築して以来、多くの自治体がiPadを用いたシステムを取り入れた

    このように日本では救急医療とタブレットの連携が進んでいる。では、米国ではどのような傾向が見られるのだろうか。

    今回は日本と北米の救急医療におけるモバイルヘルスの用途の違いを探ってみた。

  • 日本では、救急医療でタブレットが活用されている

    日本では救急車の出動回数は増加の一途を辿っている。2012年の統計では1年間に580万件出動し、過去最高を記録した。

    また、救急車が現場に到着してから病院へ到着するまでにかかる時間は、1999年の全国平均27分から、2011年には38分を越えるようになった。

    これらの原因としては、多くの病院で患者さんを受け入れられる環境が整っていないことがあげられる(下図)。

    (出典:厚生労働省「平成22年の保健統計資料」)

    多くの病院は、専門医の不在、ベッドの満床、別の急患を治療中で治療を行えないなど、急患を受け入れたくともできない状態が続いており、特定の病院に患者さんが集中するために処置が遅れる例も多くなっている。

    この問題を解消しようと佐賀県が考えたのが、iPad導入による搬送先に関する情報共有システムの構築だ。

    (出典:佐賀県庁

    佐賀県は、2011年に55台の救急車にiPadを配備し、どの医療機関が受け入れ可能であるか、あるいはどの病院に搬送が集中しているかをリアルタイムで確認できるようにした。

    これにより、救急隊員は急患を救急車に乗せ、車内でiPadを用いて症状や科目を選択・入力すると、搬送先の候補から、医療機関の混み具合や、患者さんの症状に対応する医師の有無などを知ることができる。

    このiPadによる情報共有システムの導入により、佐賀県内4箇所の救急救命センターに搬送が集中する割合が32.7%から29.6%に緩和され、2010年に34.3分だった平均搬送時間が2011年上半期では33.3分に改善された。

    救急医療において生死を分かつ「1分」を短縮するという、大きな成果をあげてみせたのだ。

    2012年10月に47都道府県に実施した調査によると、現在では佐賀県の他にも、8つの自治体がiPadなどのタブレット端末やスマートフォンを救急業務に活用しているという。

  • 米国では意外にも緊急医療でタブレットが普及していない

    (出典:Photo Pin)

    日本での成功例と対照的に、米国では救急医療、特に救急車でタブレット端末を用いたという報道は意外なほどに少ない。わずかにフィラデルフィアやボストンでEMS(救急医療)記録を電子文書化するのに用いられた例が見られる程度だ。

    米国がタブレットを救急医療に用いない理由は、日米の救急車の「受け入れ」問題の深刻度の差にあるようだ。

    日本の救急搬送システムにおいては、119番を受けた救急隊が、患者さんの搬送先を探す責務がある。もし、搬送先が決まらず、患者さんの症状が悪化した場合、転送先を探している救命士側の責任が問われる。

    救急医療機関にとっては病床数や医師数が充分でないことが多く、無理に急患を受け入れて、不十分な結果を引き起こした場合、刑事追訴が行われることもあり、無理な患者さんの受け入れはリスクが高いのだ。

    一方米国では、1986年にEMTALAという法律が制定されている。同法は救急医療や分娩に関して定めたもので、支払い能力や保険の有無に拘わらず、全ての患者さんが医学的な検査を受ける権利があることと、社会的弱者にセーフティネットを提供する責務が救急医にあることが規定されている。

    この法律により、同国では救患の受け入れが見つからないという事態は法的に容認されていない。

    救急隊に与えられた権限も大きい。生命に関わるような状況や急激な状態悪化が予想される場合には、病院側が「受け入れ不能」と返答した場合にも、患者さんを搬入する権利があるのだ。

    もっとも、搬送された患者さんを受け入れたとしても、すぐに診療の順番が回ってくる訳ではない。

    院内には「トリアージナース」と呼ばれる看護師がいて、状態の良くない患者さん、悪化する可能性が高い患者さんが優先的に診察を受けられるよう事前検査を行っている。

    そのため、重篤な患者さんが優先的に治療を受けられる一方で、軽症と判断された患者さんは何時間も診察を待たされるのだという。

    このように、米国では「急患をどこの病院に搬送すべきか」という問題は日本ほどに切迫していないため、iPadのようなタブレット端末を救急車内に取り入れる必要性が大きくなく、緊急医療でのタブレット端末活用が進んでいないのだ。

  • 緊急医療で携帯電話のカメラを使って、診断することは有効なのか?

    (出典:Photo Pin)

    2010年5月、ジョージ・ワシントン大学病院で、より良い救急医療の診断や処置のために携帯電話を用いる有効性について、6ヶ月にわたる大々的な調査が行われたという記録がある。

    きっかけを作ったのは同病院の救急医であったNeal Sikka(以下シッカ)氏だ。

    ある日同氏の元に、夫人からの電話が入った。電話に出てみると「子供が倒れて膝をけがした」という。この時シッカ氏は、怪我の様子を携帯電話で撮影して送信するように告げた。そして送られてきた写真を見て、治療方法を夫人に指示した。

    シッカ氏はそれ以前にも、家族や友人に頼まれて、カメラ付きの携帯電話で傷を撮影させて判断したことが何度かあり、「携帯電話での撮影は救急医療の診断に有効なのではないか」と考えていた。そこで同氏の主導で、病院をあげての大規模な調査が行われた。

    患者さんには、携帯電話のカメラを使って自分の傷の写真を4枚撮影し、傷の程度を箇条書きし、専用のアドレスに電子メールで送信してもらう。

    医師は送られてきた写真をパソコンで拡大表示し、縫合が必要なぐらい重篤かどうかの判断を行う。その後、患者さんに来院してもらって診察し、携帯電話による診断が正確であるかどうかを検証する、というものだ。

    研究の成果は上々で、診断の95%が正確だったと判断された。医師による触診やレーザーを必要とするような症状では正確性が低く、また粗い画像では実際の症状より深刻であると評価してしまう傾向が見られたものの、携帯電話による写真撮影・送信は診断に有用である、とシッカ氏は結論づけた。

    この手法を実用化するには法的問題やプライバシーなどいくつかの問題が残されている。しかし来院の必要性の有無を伝達できる他、医師と患者さんのコミュニケーションを潤滑にするなど、予想される効果は大きいという。

  • 通院する患者さんの絶対数を減らすことが、適正な救急医療の提供につながる

    日米の救急医療とモバイルヘルスの関係を紐解いてみると、細かな事情は異なるものの、根本的な問題に違いがあるわけではない。

    両国ともに急患の数が年々上昇しており、その一方で病院の設備・医師の絶対数が不足している。日本ではその対策のためにiPadを用いて医療機関の適切な振り分けを試み、米国では重篤度に応じた優先順位を設けている。

    根本的な課題は「患者さんの絶対数を減らす」ことにあるだろう。患者さんの絶対数が減れば、救急車で搬送される重篤な患者さんにも、より質の高い医療を迅速に提供しやすくなる。

    日本でも2003年に「地域包括ケアシステム」の構築が提言され、高齢者への医療提供において、コストの高い病院から在宅医療にシフトしていくことを推進している。

    そういう意味では、ジョージ・ワシントン大学病院が行った、携帯電話を用いた事前検査も有望なもののひとつだろう。診療できる症状が外傷などに限られるものの、来院する必要のない患者さんに事前にメールなどで通達することができるからだ。

    この時の調査では携帯電話の「カメラ機能」が用いられたが、皆が高性能なスマートフォンやタブレットを持つようになれば、救急車だけでなく医師と患者さん間で、より進んだ事前検査や遠隔医療が行えるようになる可能性もある。

    この先携帯端末は、救急医療の抱えている根本的な問題を緩和するツールになるかも知れないのだ。

 
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