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Vol.1 乳香の神秘の香り

乳香は文明の黎明期(れいめいき)から宗教上の儀式や祭祀に用いられてきた。祭壇で焚かれた薫煙(くんえん)は神と人間とを仲立ちするもので、天上の神を喜ばせ、また人々の願いを神に届けるものだった。
私はこの香りをよく知りたいと思い、歴史を調べ、訪れた土地土地で香りに注意を払い、そして自分の手で焚いてみた。乳香はどのような香りで、人々に何を感じさせ、何をなしてきたのだろうか。

1. 歴史を振り返る

○古代エジプト文明では第5~6王朝時代(紀元前26~22世紀ころ)、既に乳香が用いられていたことが分かる。紀元前14世紀の古代エジプトの王、ツタンカーメンの埋葬品の中には乳香が見つかっている。古代エジプトの神官たちは芳しい(かんばしい)香煙が天上に昇っていく様子を「神の臨幸」又は「神の顕示」の兆候として眺めていた。乳香は主に北東アフリカのソマリアやアラビア半島南部のオマーンで産出される。

○「マタイ伝」第2章によれば、イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、「(東方からきた占星術の学者達は)家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物として献げた」とある。ここでの「乳香」は神を寓意(ぐうい)している。

2. 乳香の香りに接する

パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会のノートルダム大聖堂に入ると、乳香を焚く香りがした。ミサが行われていて、司祭の祈りが歌うような旋律で流れていた。オルガンの音色と、高い天井と、美しいステンドグラスから差しこむほの暗い光が、ミサの荘重な雰囲気をかもしだしている。この雰囲気にひたると、異教徒の私でも何か逆らい難い力につき動かされ自然と敬虔(けいけん)な気持ちになったのを思い出す。知り合いの歴史にも詳しいフランス人によると、フランスでは乳香の最高級品をvielle eglise(古い聖堂) と言うと教えてくれた。たしかに、由緒のある教会で長年月焚かれた品質の高い乳香が壁や柱に染みついていて、そこに入ると、自然に乳香の雰囲気を感じるのだ。
トレドはスペインのマドリッドの南70キロにあり、一時代ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が共に住んだ歴史を持っている。現在でも中世のたたずまいを目の当たりにすることができる。ここで、1つの建物に異なった宗教と時代の建築様式が入り混じった大きな教会を訪れたとき、荘厳(しょうごん)な乳香の香りが漂っていた。

ウィ-ンの日曜日、王立礼拝堂の朝は少年合唱団の歌声が聞ける。ミサの折り天使の歌声が3階の更に上から聞こえてくるのは、いかにも天上から降ってくるようで不思議な感覚に包まれた。そのとき、乳香が焚かれていた。少しシナモンが混じっているようなスパイシーなニュアンスがして、乳香にも種類の違いがあることを改めて知った。
東京ではニコライ堂の名前で知られる日本ハリストス正教会東京復活大聖堂を訪れた。御茶ノ水駅の聖橋側の改札口を出て南側すぐのところにある。イコンの飾られた聖堂はカトリックやプロテスタントの教会とは異なる雰囲気を感じる。振り香炉から私のところに届いた香りは、これまで嗅いできた乳香の印象とはやや異なり、透明感が少なく複雑なイメージであった。たずねてみると、この日の乳香はいくつかの産地のものをブレンドして薫じて(くんじて)いると教えてくれた。

3. 乳香の悦び

手元にある黄緑色を帯びた半透明・乳白色の小指の先ほどの乳香を薫じると、すすをあげたあと澄んだ甘さと松ヤニに似た香りと青紫の混じった白い煙を立てる。
目を閉じると、恍惚感にもつながる軽いめまいをおぼえる。その恍惚感は、座っていて急に立ち上がったときに起こるフラッとする“立ちくらみ”の感覚に似ている。
私は壮大な歴史に秘められた乳香の香りに接すると、心のときめきと同時に大きな悦びを感じるのである。

2nd Season